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西田橋は、江戸時代に鶴丸城から九州街道へ至る島津家参勤交代の道筋にあり、城下の玄関口としての役割を担っていた橋です。もともとは木造でしたが、城下整備の一環として甲突川改修と合わせ、弘化3年(1846年)に石橋へ架け替えられました。
架け替えの際にも木橋時代の青銅擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄を備えるなど、藩の威光を誇示する造りとなっています。橋の側面に踏ん張りを持たせ、壁石を扇状に積み、二重アーチに見せる技法を初めて用いるなど、名石工・岩永三五郎の技法が存分に発揮された生涯の傑作とも評される橋で、昭和28年(1953年)には県指定有形文化財に指定されました。
創建から150年間、現役の橋として使われ続けてきましたが、平成5年(1993年)の8.6水害後の甲突川改修に伴い、この地へ移設保存されることに。復元にあたっては、現場に残された痕跡を調査し、創建時の構造的・美的意図が最もよく現れた姿を基本として、当時の技術や経済事情を反映しながら丁寧に再現されました。





館内では、五石橋の歴史や石造アーチ橋の当時の作り方が解説されているほか、大河ドラマ「篤姫」に関する展示も行われています。


西田橋の左岸側にはかつて御門があり、城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸の際の写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。西田橋解体時に行った取付道路の発掘調査では、その礎石の一部が発見されました。





鹿児島市の中心を流れる甲突川の五石橋(武之橋・高麗橋・西田橋・新上橋・玉江橋)は、薩摩藩家老・調所広郷の財政改革の成功を背景に、肥後から招かれた名石工・岩永三五郎によって架けられました。平成5年の集中豪雨で武之橋と新上橋が流失し、残る3橋は河川改修に合わせて祇園之洲地区に移設復元されました。
中でも高麗橋は、五石橋の中で2番目に長い4連アーチの石橋。大きな水切り石や河床の敷石で水勢を和らげる構造が特徴です。1847年の創建以来、たびたび手が加えられてきたため当初の姿は特定できませんでしたが、市民に親しまれてきた明治末〜大正末期の姿に復元されました。




「近代国家の生みの苦しみ」とも形容される西南戦争は、西郷隆盛を頭に戴く薩摩軍が7ヶ月にわたり政府軍と攻防を繰り広げた戦いで、両軍合わせて13,240余人もの戦死者を出した悲惨な戦争でした。
最後の決戦場となった鹿児島では、戦死した官軍将兵1,270余人全員がこの祇園之洲に葬られました。もとは墓石が整然と並ぶ官修墓地でしたが、荒廃が進んだため、昭和30年(1955年)に地下納骨堂へ合葬され、西南戦争100年を機に慰霊塔が建てられました。
塔は「悲」「苦」「悶」を表す3像の上に「和」像を据えた構成で、生死の苦しみを離れて安らぎを得ることを表現し、「和」像の光背は新時代に芽吹く新樹を象徴しています。納骨堂の前方には、西南戦争に参加した青森県人が翌1878年(明治11年)に建てた碑も残されています。





このあたり一帯はかつて遠干潟で「祇園浜」と呼ばれていましたが、島津家27代・斉興のもとで藩政改革を断行した調所広郷が兵士の屯集所として埋め立てました。その後、斉彬がここに砲台を設置し、薩英戦争で初めて実戦に使われた場所です。





玉江橋は五石橋の中では一番上流にあり、最後につくられた4連アーチの石橋でした。城下町郊外で通行量も少なかったためか橋幅も一番せまく、また他の石橋に比べると建設費も格段に少なく、造りもやや粗末なことなどから実用橋として利用されていたと考えられます。




文久3年(1863年)に薩摩藩とイギリス艦隊が交戦した薩英戦争を後世に伝えるため、大正6年(1917年)に有志によって建てられた記念碑です。




岩永三五郎幸安(1793〜1849)は熊本出身の天才石工職人です。その卓越した技術が認められ、薩摩藩に一族ごと招かれ、鹿児島を中心に九州各地で190以上の石橋架橋や河川改修・港湾工事・道路建設など幅広いインフラ整備を担いました。その技術は一族に受け継がれ、明治時代には皇居の二重橋建設にも携わりました。この石碑は1990年に彼らの功績を称えて建てられたものです。








古くから島津氏の篤い崇敬を受け、鹿児島五社の第二社として広く信仰を集めてきた神社です。元禄7年に刊行された井原西鶴の「西鶴織留」の中では、この神社を信仰した町人が商売繁盛したと紹介されており、当時から商売の神様として親しまれていたことがわかります。
参考 : 八坂神社 | 鹿児島県神社庁







旧鹿児島紡績所技師館は、日本初の西洋式紡績工場の操業を指導するため、英国から招かれた技師たちの宿舎として慶応3年(1867年)に竣工した洋館です。
1865年、英国に密航した薩摩藩士たちは蒸気機関と紡績機械を買い付け、英国人技師7名を招き、彼らから近代的な紡績技術を学びました。その技術はやがて日本各地へ広がり、わが国の機械紡績の礎となりました。
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慶応3年(1867年)、この地で鹿児島紡績所が操業を開始しました。イギリスから輸入した蒸気機関と紡績機械を用いて大量生産を行う、日本の産業革命の起点ともいえる工場施設です。







明治42年(1909年)に島津家吉野殖林所として吉田村(現吉田町)に建てられ、昭和61年に現在地へ移築された建物で、国の登録有形文化財に指定されています。
館内では美しい薩摩切子の数々が販売されていて、見ているだけでもうっとりしました。天井からはライトと組み合わせた切子のディスプレイが煌めき、空間全体が宝石箱のような華やかさに包まれています。




薩摩切子の制作工程を間近で見学することができます。熟練した職人の繊細な手仕事を近くで眺められる、貴重な体験スポットです。一つひとつのカットに込められた技と美しさを、すぐそばで感じられる素敵な場所でした。









旧薩摩藩主・島津家ゆかりの登録有形文化財「旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所」をリノベーションした特別な店舗です。
建物はもともと明治37年(1904年)に建てられた洋風木造2階建て。和風の瓦葺き屋根に洋風のアーチ型ベランダを組み合わせた美しい和洋折衷の意匠で、屋根には島津家の家紋「丸に十字」が刻まれています。
参考 : 旧薩摩藩主、島津家ゆかりの登録有形文化財「旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所」をスターバックスにコーヒーとともに、薩摩の歴史を感じ、桜島の絶景を堪能できる『スターバックス コーヒー 鹿児島仙巌園店』 が2017年3月29日(水)オープン | スターバックス コーヒー ジャパン




登り窯跡は、島津家のお庭焼が受け継がれた窯の遺跡です。
29代島津忠義は明治28年(1895年)に吉野町磯の自邸内に窯業所「仙巖窯(せんがんがま)」を造り、古薩摩から斉彬時代までのお庭焼を研究して、その特色を活かした色沢豊かで高尚な陶器を焼成しました。
30代島津忠重も父祖の志を継いで、明治40年(1907年)に鶴嶺神社付近へ仙巖窯を築き、大正4年(1915年)にこの地へ移して昭和2年(1927年)までお庭焼を続けました。その後は「市来陶器製造所」となり、十数年を経て終業しました。








鹿児島市立科学館では火山噴火のしくみや桜島の噴火の歴史が学べます。火山と人と自然のつながりを知ることで桜島や錦江湾の景色の見え方が変わるはずです。







グループのケーキ部門「ケーキ園トレーンベル」を併設しているため、薩摩蒸氣屋の店舗の中では珍しく洋菓子のケーキも購入できる店舗です。