








岩剱神社社務所


駐車場およびトイレと同じ場所に設けられている施設です。


岩剱神社







社説によると天文二十三年に創建されたと考えられていますが、棟札の記録からは天文十一年頃にはすでに存在していたと伝えられています。祭神は大己貴命と保食命で、神体は木像二体です。旧郷社で、別当寺は円明院でした。神領六十石余と神林が寄進され、島津貴久が城合戦の際に立願し成就したことから、軍神として尊崇されました。また、義弘がたびたび参詣し、神舞を奉納したと伝えられています。


島津義弘公の腰掛石
訪れた参拝者もその目印として見ることができます。神社は義弘公との縁が深い場所として語られ、義弘公自身がたびたび岩剱神社に参詣し神舞を奉納したとも伝えられています。
参考 : 2019年6月(岩剣城跡と岩剣神社) | 鹿児島商工会議所

重富 菅原神社




祭神は菅原道真公で、学問の神として古くから地域の人々の信仰を集めています。


岩剣城跡















岩剣城は、戦国時代の享禄二年期頃に築城されたとされ、当初は蒲生氏が守っていたと考えられます。薩摩半島を勢力下に収めた島津氏十五代貴久が、次に総力を挙げて取り組んだのが大隅平定であり、岩剣城をめぐる戦いはその端緒となりました。


岩剣城合戦の勃発
天文二十三年、蒲生・祁答院氏連合軍との間で「岩剣城合戦」が起こりました。この合戦では両軍とも鉄砲を用いた激しい攻防が繰り広げられ、天文二十三年九月十二日から十月十九日まで続いたとされています。この戦いの様子は、加治木の新納家に伝わる『岩剣城合戦記』に詳しく記されています。


島津義弘の初陣
この合戦では、当時九歳であった島津義弘(忠平)が「白かね之陣」の大将として初陣を飾ったと伝えられています。島津氏にとっても重要な戦いであり、義弘の武将としての歩みの始まりとなりました。


総攻撃と島津方の勝利
十月二日、夜明けとともに島津方は岩剣城への総攻撃を開始し、思川(平松川)を渡って駆け付けた蒲生・祁答院氏連合軍と「池島之原」で激戦となりました。最終的に島津方は敵軍を帖佐高樋の別府川まで追い詰め、大将格の武将を含む五十人余りを討ち取り、大勝利を収めたとされています。


平松城の築城と改修
この後、島津義弘は岩剱城を守るため、山麓の「星原」に平松城(現在の重富小学校付近)を築いたといわれています。また、平松城の改築も行われ、現存する石垣はこの時に築かれたものとされています。


曲輪と防御施設
岩剣城の曲輪一の西辺と南辺には土塁が築かれており、西辺の土塁の高さは約三・六メートルあります。その外側には空堀が設けられ、空堀底から土塁上までは約七・五メートルの高低差があり、敵の侵入を防ぐ堅固な構造となっています。


虎口と城の構造
曲輪一と曲輪二十一を結ぶ昇降口として、曲輪一北辺中央部には階段状の虎口(入口)が設けられています。虎口周辺には石垣が積まれ、他の曲輪に比べて特に堅固な造りとなっています。


立地と眺望
岩剣城跡は、吉野台地北縁の惣林嶽から北東に伸びる尾根の先端、標高二二五メートルの勉ノ岡に位置しています。城跡からは始良・加治木の平野や鹿児島湾を一望でき、天気の良い日には霧島連山を遠望することができます。狼煙などによる情報伝達が行われていたと考えられています。


天然の要害としての岩剣城
城は南西部を除く三方を急崖に囲まれており、天然の要害といえる地形です。山麓北側には、思川に注ぐ狩川水系の岩剣川が流れています。近年のレーザー測量調査により、北北西の尾根上には、島津義久が陣を構えたとされる「狩集陣」跡と考えられる遺構も確認されています。


フォンタナの丘かもう














「フォンタナ」という言葉には、“湧き出る泉”という意味があります。その名のとおり、ここでは身体をいたわる「温泉」「食」「眠り」を通して、訪れた人の中にある元気をやさしく呼び覚ましてくれます。
源泉かけ流しのお湯は、“美肌の湯”として親しまれる良質な弱アルカリ性単純温泉で、肌にやさしくまとうような柔らかな湯ざわりが特徴です。大浴場のほか、完全貸切の和室ひのき風呂も用意されており、3時間限定の立ち寄り湯として利用できます。心と身体をゆったりと整えられる、癒しの施設です。
参考 : フォンタナの丘かもう 鹿児島県姶良市蒲生のホテル・温泉施設