








磯御殿







仙巌園は19代島津光久が別邸として構えて以来、歴代当主に受け継がれてきました。明治4年の廃藩置県後には島津家が鹿児島城からここに移り、明治17年には御殿の大規模な改築が行われました。現在は当時の建物の約3分の1が残り、かつての島津家の暮らしを伝えています。
長い歴史の中で受け継がれてきた建物が今も残っていることに深い魅力を感じます。わずかに残された部分からでも、島津家がここでどのように暮らしていたのかを想像でき、とても興味深いです。
万治元年(1658)に島津家19代光久が御殿を築いて以来、何度も建て直しや増改築を重ねながら、歴代当主がこの場所を愛し続けてきた歴史があります。幕末以降は国内外の賓客をもてなす場所として用いられ、29代忠義が本邸として御座の間を改築し、30代忠重が跡を継いだ後も、東京へ住まいを移しながら鹿児島に戻る際の邸宅として維持されてきました。和の趣に風水の思想を取り入れた作庭や、西洋風の調度品の数々は、公爵島津家の暮らしぶりを現代に伝える貴重な手がかりとなっています。


鳳印の間


鳳印の間(玄関の間)は、島津家の世継ぎ・忠重がニコライ2世来訪時に着用した甲冑の複製が床の間に飾られ、大正期の改築で玄関として用いられるようになった部屋です。


薩摩燒蓋付壶
薩摩焼の蓋付き壺は、1896年にニコライ2世のロシア皇帝即位を祝って島津家が献上した品を模して作られたものです。


神馬
ここはかつて島津家の歴代を祀る組霊社があった場所で、現在は園内の神社に奉納されていた神馬が展示されています。


謁見の間
謁見の間は、明治17年(1884)に改築され、丸十の家紋をあしらったロンドン製シャンデリアの明かりの下で、多くの来賓を同時に迎える場として使われていた部屋です。


釘隠し
御殿内には、日本建築ならではの伝統的な装飾「釘隠し」が多数残されており、細部にまで込められた美意識を感じます。すべてを見つけることはできませんでしたが、気づいた瞬間に「こんなところにも…」と嬉しくなり、つい写真に収めたくなる魅力がありました。


望嶽楼
望嶽楼は、江戸時代初期に琉球国王から薩摩藩に贈られたと伝わる建物です。床に敷かれた273枚の塼(せん)と呼ばれる敷き瓦は、中国秦時代(紀元前3世紀)の阿房宮のものを写したといわれ、内部の扁額は中国東晋時代(4世紀)の書家・王羲之の書を模したものと伝えられています。安政5年(1858年)には、勝海舟もこの異国情緒あふれる建物で島津斉彬と対面したという、歴史的な舞台でもあります。


立礼茶席 竹徑亭
庭園散策の合間の休憩に最適な場所となっています。抹茶と和菓子のセットは手頃な価格で、観光の途中に気軽に立ち寄れる雰囲気です。ゆったりとした時間を過ごしたい方におすすめの茶屋です。


土産処 島津のれん




鹿児島ならではの名産品や島津家ゆかりの品を幅広く取りそろえた場所です。かるかんや黒酢といった定番のお土産から、やさつま揚げまで多彩な商品が並んでいます。
参考 : 売店 アーカイブ - 名勝 仙巌園 - 薩摩藩 島津家別邸

千尋巌
巨岩に刻まれた「千尋巌」の3文字は約3900人もの人が3ヶ月間かけて刻んだものです。27代斉興によって造られました。
参考 : 仙巌園と集成館~桜島を望む島津家の別邸。雄大な景色と世界遺産を体感できる感動スポット! ~ | 特集 | 【公式】鹿児島市の観光・旅行情報サイト|かごしま市観光ナビ

鶴嶺神社




鶴嶺神社は、文治元年(1185年)から明治4年(1871年)の版籍奉還まで、約700年にわたり南九州を治めた島津家の歴代当主とその家族、そして玉里島津家の歴代当主とその家族を奉祀する神社です。家老5名、殉死者45名も従神として祀られています。
明治2年に創建され、当初は鹿児島市内坂元町山下鶴嶺(現在の照国町・島津斉彬公銅像の地)に建てられました。明治6年(1873年)に県社に列せられ、大正6年(1917年)に島津家30代・忠重によって現在地へ遷座、御社殿が造営されました。昭和10年(1935年)には天皇陛下の地方行幸の際に幣帛料を賜っています。


尚古集成館


薩摩藩では、鎖国の時代から海外の情報をいち早く取り入れており、幕末になると欧米列強のアジア進出を危機としてとらえ、西洋の技術を積極的に導入して軍備と産業の近代化を進めました。これが集成館事業と呼ばれる取り組みです。