








精矛神社








精矛神社は、戦国大名の島津義弘を祭った神社で、もともとは島津屋形内にあったものが、大正七年に義弘公の三百年祭を記念して現在の地に移されたそうです。義弘は慶長の役での武功により加治木や国分などの領地を返還され、その後加治木で町づくりを行い、現在の加治木の基礎を築きました。元和五年に加治木屋形で亡くなり、その遺骸は鹿児島城下の福昌寺に葬られたそうです。また、神社の本殿には朝鮮からの帰国の際に持ち帰ったとされる手洗鉢や石臼が残されていました。
鳥居は派手な装飾こそありませんが、石造りで落ち着いた佇まいがあり、歴史の重みを感じさせる趣がありました!


朝鮮から持ち帰った石臼・手洗鉢


万齢山椿窓寺の住職・鳳山和尚は、島津義弘に従って文禄の役に陣僧として従軍し、その際に朝鮮から石臼や手洗鉢を持ち帰りました。
帰国の船は荷が少なく不安定だったため、これらは船底に積む重し(底荷)として用いられたと考えられています。 持ち帰られた石臼と手洗鉢は、最初は加治木島津屋形の西の丸に置かれ、明治2年に精矛神社が造営されると現在の加治木護国神社の地に移されました。
その後の神社の遷座に合わせて、これらも境内に移され、今に伝えられています。その後の神社の遷座に合わせて、これらも境内に移され、今に伝えられています。
異国から持ち帰られた石臼や手洗鉢が、戦だけでなく歴史を伝えるものとして大切にされてきたことに、とても心を動かされました。


正一位精矛渋谷稲荷神社(精矛神社境内摂社)






島津家初代・忠久公の誕生の際、源頼朝の側室であった丹後局が逃避の途中で狐に導かれて無事出産できたという伝承があり、この出来事により狐が島津家の守護神として崇められるようになったそうです。
本稲荷神社のご祭神は、島津義弘公が文禄・慶長の役の際に伏見稲荷大社から御霊を勧進し、戦陣で肌守りとして祀った神であるそうです。
明治六年、島津久光公が上京した際に本陣からお稲荷様を引き取り、東京の玉里島津邸に社殿を建てて祀り、渋谷稲荷神社として玉里島津家が祭祀を行われました。


加治木島津屋形跡





加治木島津屋形跡には、加治木護國神社や西南戦争の戦没者を祀る記念碑、そして歴史を伝える欄干橋(擬宝珠橋)が残されており、地域の歴史と島津家のゆかりを今に伝えています。


加治木護國神社
加治木町および姶良郡出身で、日露戦争や西南戦争などの戦で亡くなられた英霊が祀られているそうです。創建は明治五年で、県内でも屈指の愛国者を崇敬する社として設けられたそうです。その後、遷座や戦災、さらに水害による倒壊を経ながらも、地域の強い信仰と努力によって再建が重ねられ、平成九年に現在の地へ再び鎮座されました。
参考 : 加治木護國神社 | 鹿児島県神社庁

欄干橋(擬宝珠橋)
この橋は慶長11年に島津義弘によって南堀に架けられ、当初は木造で欄干には青銅製の接宝珠が取り付けられていたそうです。橋の腐朽により後に石橋として再建され、その際も接宝珠は引き継がれたとのことです。接宝珠には「慶長十三年丙子二月吉日」の刻銘があり、7個が現存しています。


加治木西南戦争記念碑 戦亡招魂之表




神社本殿の左手には、西南戦争で加治木から従軍し戦死した人々の名を刻んだ碑があるそうです。加治木の私学校生徒たちも火薬庫襲撃に加わり、多くの住民が薩軍として熊本方面へ出陣し、各地で戦死者を出したと伝えられています。


加治木郷土館















加治木郷土館では、加治木にゆかりのある歴史や人物、文化について学べました。例えば、伝統工芸や歴史的書、人物の生涯などの資料、島津家のつながりや加治木の歴代の歩みなどを通して、この地域が果たしてきた役割や歴史の重みを感じることができました。また、戦争の記録などから、平和の大切さについて考えるきっかけにもなりました。
館長さんがとても親切で、豊富な知識をもとに丁寧に説明してくださり、より深く学ぶことができました。


膝跪騂の墓





膝跪騂は、島津義弘が数多くの戦で乗ったとされる愛馬で、戦場で義弘の危機に際し膝を折って身を支え、命を救った逸話からその名がついたそうです。その後も義弘に寄り添い各地を転戦し、83歳まで生きた長命の馬として伝えられています。墓石や関連の石碑が残されており、今も人々に大切に見守られていることから、その存在が深い敬愛の対象であったことがうかがえます。
膝跪騂は多くの戦で義弘を支えた長命の名馬で、その忠誠心あふれる逸話から、主従の深い信頼関係を感じ取ることができます。