








鹿児島(鶴丸)城跡





鹿児島城では、天守閣を持たないものの、屋形に見事な石垣が築かれていました。この石垣には、鹿児島市北部の吉野台地を形づくる吉野火砕流(約50万年前)の溶結凝灰岩が用いられていました。吉野台地の存在がなければ、近世の鹿児島城の景観も異なるものになっていた可能性があります。


石の文化を支えた火砕流堆積物
県内には石材として利用される火砕流堆積物が12あり、いずれも溶結凝灰岩で、人々の生活の場の近くで石材が採れるという「石の文化」が形成される要因となりました。吉野火砕流は「たんたど石」「花棚石」として知られ、鹿児島城の石垣をはじめ、仙巌園の反射炉やかごしま水族館のイルカ水路の石垣にも使われました。鹿児島城の石垣の多くは、溶結凝灰岩に適した「切込矧ぎ」という技法で積まれています。


ほかの火砕流堆積物と鹿児島城下の石材利用
加久藤火砕流の溶結凝灰岩は「小野石」「入来石」「郡山石」として知られ、「小野石」は旧集成館機械工場や西田橋の橋脚に使われています。これらの石材は、かつて鹿児島城下の屋敷地の境界を示す石塀にも用いられていたと考えられています。溶結凝灰岩は、まさに「麓をつくった石材」であり、城を含む地域の景観形成に大きく関わっていました。


明治期の焼失と記録
鹿児島(鶴丸)城の本丸は、廃藩置県後の明治5年(1872)に鎮西鎮台の分営となり、翌明治6年(1873)に失火で焼失しました。城の変貌や殿舎の荒廃を嘆いた元薩摩藩士・成尾常矩は、城周辺の見取図「成尾常矩城下絵図」と本丸間取図「成尾常矩指図」を作成しました。


鶴丸城の構造と城下町
鹿児島(鶴丸)城は、山から平野にかけて築かれた「平山城」でした。藩主の居所は城山を背に建てられ、その居所を中心として海側へ向かって城下町が形成されました。築城当時(慶長6年・1601年)、軍事機能の中心は城山に置かれ、行政機能の中心は居所とされていました。また、藩の政治を行う役所の一部は、居所以外の場所にも配置されていました。


庭園跡
明治5年(1872年)、明治天皇の鹿児島行幸に同行した写真家・内田九一が撮影した写真により、鹿児島(鶴丸)城内に庭園があったことが分かっています。
発掘調査でも庭園の石材や立石が確認され、写真の庭園の一部が現在も地中に残っている可能性が示されました。庭園の石材は昭和初期に他の場所へ移されましたが、後に再び鶴丸城跡に戻され、現在は黎明館近くの御仮屋池に設置されています。


麒麟の間跡と能舞台跡
鹿児島(鶴丸)城の発掘調査で、かつての「麒麟の間」と「能舞台」、そしてそれらをつなぐ「橋掛り」の跡が見つかりました。絵図に描かれた位置とも一致しており、城内に能舞台が実際に存在していたことが確認されています。
橋掛りの跡からは、固く締めた土の上に漆喰を塗った構造が発見され、これは音の響きを良くするための工夫と考えられています。これらの遺構は、当時の鶴丸城で武家文化や能が盛んに行われていたことを示す貴重な証拠です。


鹿児島県歴史・美術センター黎明館



黎明館(鹿児島県歴史・美術センター)は、明治百年を記念して昭和58年(1983年)に開館した人文系の総合博物館です。文化勲章受章者・谷口吉郎氏設計によるもので、考古・歴史・民俗・美術工芸の常設展示のほか、年複数回の企画展も開催しています。
敷地は江戸時代の鹿児島城本丸跡にあたり、堀・石垣・石橋など当時の姿が残されています。令和2年(2020年)には147年ぶりに御楼門が復元され、令和5年(2023年)には鹿児島城跡が国の史跡に指定されました。
参考 : 鹿児島県/鹿児島県歴史・美術センター黎明館

照國神社





照國神社は、薩摩藩十一代藩主・島津齊彬公を御祭神として元治元年(1864年)に創建されました。
齊彬公は幼少より学問を好み、西欧の植民地政策に危機感を持ち富国強兵・殖産興業を推進。反射炉設置・大砲製造・蒸気船建造・洋式紡績工場など集成館事業を展開し、近代日本の礎を築きました。また身分を問わず有能な人材を育て、西郷隆盛・大久保利通など明治維新の立役者を多数輩出しました。


たくさんの島津の家紋







鹿児島まち歩き観光ステーション



西郷隆盛銅像のすぐそばにある観光案内所で、市内観光やまち歩きツアーの出発点として親しまれています。鹿児島城(鶴丸城)の御城印も購入することができ、歴史ファンや御朱印集めの人々にも人気のスポットとなっています。