








知覧武家屋敷庭園




江戸時代、薩摩藩は藩内を百十三の外城と郷に分けて統治していました。外城には藩政の出先機関である御仮屋が置かれ、その周囲には町家や村落が従い、武士団の居住区である麓が形成されていました。知覧もその麓の一つで、御仮屋の前には城馬場が通り、これに直行する本馬場が整備されていました。


知覧麓の町並みと構造
知覧の武家屋敷群は、大馬場を挟んで形成され、随所に小路が配されています。現在見られる姿に整えられたのは十八世紀中頃と伝わっています。伝統的建造物群保存地区は、本馬場を中心とした範囲にあり、屈折した道路に沿って石垣と生垣が連なり、屋敷地を区画しています。道筋が後退すると腕木石柱門が開かれ、主屋と馬場の間には枯山水様式の庭園が造られています。価値の高い庭園は「知覧麓庭園」として国の文化財に指定されています。


麓に見られる建築物の多様性
麓には、主屋、蔵、門、中門、石垣、車庫など多様な建築物があります。建物は江戸時代から続く武家住宅、明治以降の近代和風建築、中身が現代建築の和風外観など、時代による分類も可能です。さらに、茅葺きや瓦葺き、門の形態、木材の組み方など、技術的な観点から見ることもできます。


武家屋敷群の特徴と文化的価値
知覧の武家屋敷群は、260年ほど前に前後して造られました。主屋と庭園がよく調和し、石坂の上に続く大刈込の生垣が特徴で、町並み全体が一体となって庭園都市を形づくっています。この景観は世界に誇れる文化財として高く評価されています。上郡地区18.6ヘクタールは昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区として国の選定を受け、全国で17番目、九州で2番目の選定となりました。


庭園の文化財指定とその背景
庭園が名勝として国の文化財に指定された理由として、文化庁は、薩摩藩にのみ存在する郷に作庭されていること、いずれも江戸時代中期の作庭で優れた意匠を持つこと、琉球の庭園と通じる手法が見られることなどを挙げています。これらの点から、庭園文化の伝統を知るうえで貴重な存在とされています。なお、鹿児島では昭和33年に島津氏の別邸である庭園が名勝に指定されており、知覧は県内で2番目の名勝指定となります。


知覧麓の切り石垣の特徴
知覧麓の切り石垣は、溶結凝灰岩などの切り出しが容易な堆積岩が分布する地域特性を背景に築かれたもので、麓に見られる石垣の中でも切石積みが多い地域に属し、地元の素材を生かした石垣づくりが行われていることを示しています。


佐多氏による知覧の統治



江戸時代の知覧は、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていました。佐多氏には優れた当主が多く、薩摩藩の中でも重要な役目を果たしました。その功績により、十六代久達の時代には知覧の私領地化が認められ、さらに島津姓の使用が許されました。


武家屋敷群の成立時期と屋敷構えの特徴
現在残る武家屋敷群は、十六代島津久達(1651〜1719)の時代、あるいは十八代島津久峯(1732〜1772)の時代に造営されたとされています。地区内では石垣によって屋敷地が区切られ、沖縄によく見られる魔除けの石碑である石敢當が置かれています。また、屋敷の入り口には内部が直接見えないように屏風岩(沖縄のヒンプンにあたる)が設けられています。知覧港が琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷には琉球文化の影響が色濃く見られます。


借景としての母ヶ岳と「薩摩の小京都」
母ヶ岳の優美な姿を借景とし、約280年の歳月を経た武家屋敷群は、今も歴史の息吹を伝えています。その落ち着いた佇まいから、「薩摩の小京都」とも呼ばれています。


外城制度と知覧麓の位置づけ
江戸時代、薩摩藩は領地を113の外城に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を形成しました。これにより、武士団を鹿児島に一極集中させることなく、各地に分散配置して統治を行いました。知覧もその外城のひとつです。


保存地区選定と庭園
「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例であり、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣の景観が優れており、国としてその価値が高い」として、昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、地区内にある七つの庭園は名勝に指定され、「優れた意匠で構成され、琉球庭園と通じる手法が見られ、庭園文化の伝播を知るうえで貴重である」と評価されています。七庭園のうち森氏庭園のみが池泉式で、その他はすべて枯山水式となっています。


森商店横 観光駐車場


森商店の横に設けられた無料の観光用駐車場です。武家屋敷群など知覧の主要観光地に近く、観光客が車を停めて散策しやすい便利な立地になっています。
参考 : 知覧武家屋敷庭園群周辺の有料駐車場が無料になりました!!

知覧武家屋敷庭園案内図
知覧武家屋敷庭園の案内図です。江戸時代に築かれた武家屋敷が連なるこのエリアは、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定されており、九州屈指の名勝として高い文化的価値を誇ります。


西郷恵一郎氏庭園




文化文政年間(1804~1829)に作庭された庭園は、東南に枯滝、西側に飛び石を配置し、屋敷の入口には城郭の枡形に由来する折れ曲がった石組みの壁が設けられていることが特徴です。庭の南東部の隅には枯滝の石組みによる高い峯が築かれ、そこから連なるように高低をつけて刈り込まれたイヌマキが遠方の連山を表現しています。また、この庭園は「鶴亀の庭」とも呼ばれ、高い石組みは鶴を、亀は大海へ流れ込む谷川の水辺に遊ぶ姿に見立てて配されており、石とサツキの組み合わせが至妙な景観を構成しています。


縁側とガラス戸の普及による変化
江戸時代までの縁側は「外縁」として外部と内部を隔てる空間であり、雨戸とともに利用されていました。しかし明治期にガラス戸が普及しはじめると、雨戸の内側にガラス戸が設けられるようになり、従来と同じ規格の縁側がそのまま家の内部空間としても使われるようになりました。


庭園の作庭年代と構成
西郷恵一郎氏庭園は、文化文政年間(1804〜1829)の作庭と伝えられています。庭園は敷地の東南では枯滝が組まれ、西側には飛び石が配されています。これらの構成が庭園の景観を形づくっています。


枡形虎口に由来する入口構造
屋敷に入るために門をくぐると、すぐに石組みの壁に突き当たります。この折れ曲がった動線をもつ入口は「枡形虎口」に由来するとされています。城郭の防御構造を取り入れた形であり、屋敷空間に特徴的な表情を与えています。


枯山水
麓の庭では、水を使わず石組みを中心に白砂や苔、刈込で自然景観を象徴的に表現する枯山水が、築山や大型の立石、露出した岩盤を景石として用いる手法とともに特徴的であり、湧水が豊富であるにもかかわらず池庭が極めて少ないという独自性を示しています。


平山克己庭園
借景とは、庭園の外にある風景を取り込み、庭の景観として活かす手法です。麓庭園にはこの借景を用いた例が多く、街道に沿って地割が展開していることが理由として挙げられます。中には、生垣の上端を立体的に仕上げて「山の端」に見立て、風景に奥行きを与える庭もあります。
これらの中でも、本庭園は母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園として知られています。北側の隅には石組みが据えられ主峯を構成し、イヌマキの生垣は母ヶ岳から連なる分脈をかたどっています。また、どこを切り取ってもひとつの庭園美が成立するよう構成され、調和と表現に優れた庭として高く評価されています。大海原を思わせる広がりの中には無人島が浮かび、さらに遠くには緑の大陸が望まれるかのように造形されており、想像とロマンを膨らませながら楽しめる庭園となっています。
平山克己庭園は、明和年間(1764~1771)の作庭と伝えられています。この庭園では、波状に刈り整えられたイヌマキの生垣を山に見立て、さらに遠くにそびえる母ヶ岳を庭景に取り入れる借景の技法が用いられています。これにより、枯山水の庭でありながら広がりのある景観が生まれています。
平山家は、知覧領主が大隅の佐多を領していた時代から共に苦楽を分かち合ってきた家柄であり、文武に秀でた家系として伝えられています。


平山亮一邸庭園



この庭園は天明年間(1781年)に作られたと伝えられています。イヌマキの生垣は波のような形に刈り整えられ、サツキの刈り込みは築山風に仕立てられています。刈り込みの前には、琉球庭園によく見られる、盆栽を置くための切石が配置されています。


大刈込みによる構成と借景の特徴


本庭園は石組みを一切用いず、大刈込みのみで構成された極めて特色ある庭園として知られています。イヌマキによって形づくられた連なる遠山は高い峯を表し、その前面に広がるサツキの大刈込みは築山の趣を呈し、母ヶ岳を庭に取り込んで簡素化した借景表現の妙が際立っています。こうした構成によって、名園として高い評価を受ける庭園となっています。


稽古所跡
江戸時代後半、知覧の稽古所は武士子弟が学問や武術、礼儀作法を学ぶ場であり、示現流剣術や弓術、相撲の修練が行われ、「書ヲ読ミ武ヲ練リ」の理念のもと青年たちが鍛錬に励んでいました。


知覧型二ツ家(小棟おき二ツ家)


鹿児島の武家屋敷には、「二つ屋(ふたつや/ニッ家)」と呼ばれる独特の構造があります。これは、大小の差がある場合や同じ規模の場合も含め、二棟の家屋が並んで一つの建物を構成しているものです。


オモテとナカエの役割
二つ屋の二棟は、主人が客をもてなしたり宴席を開いたりする「オモテ」と、主人以外の家族の生活や炊事の場である「ナカエ」に分かれています。両者は面積や床の高さなどで違いが示され、やがて「ナカエ」が縮小し、一棟の建物へとまとめられるようになりました。それでも庭に面する間がオモテの役割を受け継ぎ、玄関も「正面玄関」と「内玄関」に分かれて当初の構造が踏襲されています。


知覧にみられる独特のニッ家
鹿児島に特徴的とされるニッ家の中でも、知覧だけに見られるものは、二つの屋根の間に小棟を置いてつなぎとした造りです。これは民家建築文化史上でも貴重なものとされています。居住用のオモテと台所を備えるナカエが別棟となった分棟式民家は生活上不便が多かったため、次第に近づけられるようになり、知覧型ニッ家はその二棟を合体させた建築様式です。これは知覧大工が創作した、鹿児島独特の知覧町の建築文化となっています。


佐多美舟邸庭園




宝暦年間(1751~1764)に作庭された指定7庭園の中で最も広い庭園であり、美舟家は知覧領主の流れをくむ格式高い家柄で、特徴的な門構えを持っています。


枯滝・石組・築山
庭園には枯滝が設けられ、築山の上部には石灯籠が据えられ、下部の平地には各所に巨岩による石組が配置されています。門を入り右に折れて書院前に進むと、本庭の中心となる滝を主軸とした石組みが連なり、まるで水がえんえんと流れていくかのような迫力ある景観が広がります。その構成は訪れる人々に力強さと奥行きある広がりを印象づけるものとなっています。


佐多民子邸庭園




宝暦年間(1751~1764)に作庭された庭園は、北西隅に立石の枯滝や飛石が配置され、春には梅の古木が花を咲かせ、知覧の武士たちが書院や庭で花を愛で和歌を詠んだと伝えられます。


巨岩と奇岩が生み出す深山幽谷
この庭園では、巨石や奇岩を積み重ねて深山幽谷の景を表現しており、小舟に乗って石橋の下をくぐって進めば、まるで仙人が岩上から手招きしているかのような趣が感じられます。庭石には麓川の上流から運ばれた凝灰岩質の石が用いられ、巨岩であるため石目に沿って割り、牛馬で運搬しやすいよう工夫されていました。


佐多直忠邸庭園




寛保年間(1741~1744)に作庭された直忠家の庭園は、築山と借景が調和した格式高い門構えを持つ、知覧領主の流れをくむ名家の庭です。


母ヶ岳を借景にした築山と立石
庭園は、借景として母ヶ岳を望む位置に築かれており、その一隅には石で組まれた築山が設けられています。中心には高さ3.5メートルの立石と枯滝の石組が据えられ、両者が織りなす造形は絶妙の趣を生み出し、一幅の水墨画をそのまま庭に写し取ったかのような名園と評されています。


森重堅邸庭園






麓の家屋ではありませんが、和風建築を見る際の一つの視点として、建物の変化が挙げられます。二つ屋が次第に連結を強めていく過程で、一部の家屋は大型化も進みました。これは製材や輸送技術の発展、さらに機械力の導入が背景にあります。明治期の麓集落の建物では、太く長い梁が使われるようになり、製材の機械化により柱の角に細かな面取りが施されるなど、加工技術の向上が見られます。


縁側とガラス戸の導入による変化
江戸時代までの縁側は、外部と内部を隔てる「外縁」として雨戸とともに設けられていました。しかし明治期にガラス戸が普及し始めると、雨戸の内側にガラス戸が設置されるようになり、従来と同じ規格の縁側がそのまま家の内部空間としても使われるようになりました。


大河ドラマで使用された森重堅邸
森重堅邸は、NHK大河ドラマ「西郷どん」において、俳優・沢村一樹さん演じる赤山靱負の屋敷として登場しました。また、庭園では赤山靱負の切腹シーンも放映され、作品の重要な場面の舞台となりました。


立石



立石とは庭に石を建てて据える手法であり、麓の庭園では自然にできた凹みや貫通孔をもつ海泡石や石製の層塔が配される例が見られ、琉球や中国の庭園にも通じる特徴となっています。


森家の歴史と庭園構成
森家は亀甲城の西麓に位置し、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は寛保初年(1741)に建てられたものです。庭園の池は曲線に富み、奇岩・怪石を用いて近景の山や半島を表現しています。対岸には洞窟を象徴する穴石が据えられ、水の流動を暗示する景が展開されています。また、庭園入口右側に立つ石は庭園構成の要となるもので、雲上の遠山を表現し、象徴性豊かな意匠として重要な役割を果たしています。


城山橋


知覧武家屋敷群の東側入口に架かる小さな橋で、麓川を渡って武家屋敷の町並みに入る導入部としての役割を果たしています。周囲の石垣や生垣と調和するように石材が使われており、歴史的な景観に自然に溶け込んでいるのが特徴です。


森重堅邸庭園 専用駐車場
知覧武家屋敷群の中でも訪問者が多い庭園のため、車でアクセスする際に便利で使いやすい環境が整っています。駐車場は庭園見学者向けに設けられており、武家屋敷散策の拠点としても利用しやすい場所です。