








大宰府政庁跡
大宰府政庁跡は、7世紀後半以降に古代日本の朝廷が九州から南西諸島までを統轄する役所として置いた「大宰府」の中枢施設跡です。都から赴任した貴族が長官などを務め、九州各地から税が運び込まれ、海外からも使者や商人が訪れる、朝廷のような機能を持つ役所として都の宮殿に似た施設が整えられていたことが発掘調査で分かっています。日本最古の歌集『万葉集』には、長官・大伴旅人が催した「梅花の宴」をはじめ大宰府で詠まれた和歌が数多く残されており、大宰府は古代日本文化の一つの中心地でもありました。江戸時代の福岡藩(黒田家)による礎石調査に始まった保存の取り組みは、昭和30年代の宅地開発計画をきっかけに地元住民と行政の協議を経て指定区域が拡張され、今日見る政庁跡の姿へと整備されました。


南門跡
南門跡は、大宰府政庁に入る正門があった場所で、東西に6個ずつ、南北に3個ずつ礎石が並んでおり、朱塗りの楼門であったと考えられています。大宰府での本格的な遺跡調査は、1968年にこの南門跡から始まりました。出土した資料から、南門は8世紀初頭に建てられたこと、941年の「藤原純友の乱」で火災に遭ったこと、そしてその後再建されたことが明らかになっています。


中門跡
中門跡は、大宰府政庁跡の中門があった場所です。政庁の中門と南門の発掘調査では、それぞれの基壇から政庁Ⅱ期にあたる鎮壇具が出土しました。
昭和43年には文化庁が「大宰府史跡発掘調査指導委員会」を組織し、同年10月19日に政庁中門跡において鍬入れ式が行われています。九州歴史資料館ではかつて南門・中門の1/10復元模型を制作しており、現在この中門模型は九州歴史資料館に展示されています。
参考 : 九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内

正殿跡
正殿跡は、大宰府政庁の中心建物があった場所で、かつて基壇だったことをうかがわせる高まりと、柱を据えた礎石が残っています。政庁は8世紀初頭、平城京造営に関わった人々によって建てられ、903年に大宰府で亡くなった菅原道真が「都府楼」と呼んだ大宰府の中心建物でした。941年の「藤原純友の乱」で焼失しましたが、その後ほぼ同様の姿で再建されています。現在地表に見える礎石は10世紀後半に再建された正殿のもので、8世紀初頭の礎石を再利用しつつ、二重三重に盛り上がる壮麗な造りで建物の格の高さを物語っています。


高橋紹運墓
高橋紹運墓は、戦国の武将高橋紹運とその家来衆が眠る墓所です。紹運は23歳で岩屋城主となり名将として知られましたが、天正14年(1586年)に北上する島津軍5万との戦いで、城兵763名とともに39歳で玉砕しました。この地は岩屋城二の丸跡にあたり、「流れての末の世遠く埋もれぬ名をや岩屋の苔の下水」という辞世の歌が伝えられています。


岩屋城跡
岩屋城跡は、標高281mの岩屋山山頂にあり、戦国時代の16世紀半ばに豊後大友氏の武将高橋鑑種が宝満城の支城として築いた城です。鑑種が主家大友宗麟に背いて城を追われた後は、吉弘鎮理、のちの名将高橋紹運が城主となりました。天正14年(1586)、紹運は九州制覇を目指す島津軍5万の大軍を迎え撃ち、十余日にわたる激戦の末、豊臣秀吉の援軍到着を待たずに玉砕し落城しました。現在、本丸跡には昭和30年に紹運の家臣の子孫が建てた「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑があり、南側下方の二の丸跡には紹運の胴塚が、周囲から山麓にかけては曲輪や竪堀、堀切などの遺構が残されています。