








福山駅
福山駅は1891年(明治24年)に福山城の三の丸南側を東西に横断する形で建てられた山陽鉄道の駅で、城から最も近い駅として知られています。現在のコンコース部分はかつての二の丸正門・鉄御門があった場所で、文字通り城内そのものに位置しています。
参考 : 福山駅 - Wikipedia

福山駅南口広場


福山駅南口広場は現在、バスやタクシーの乗降場が大半を占める空間を、多くの人が集える広場へと再整備する計画が進んでいます。官民組織「福山駅前広場協議会」が検討を重ね、南口にバス乗降場を残しながら広場機能も確保する案に絞られました。
現在も花壇に美しい花が植えられており、釣り人の像とともに福山駅南口のシンボルとして市民に親しまれています😊
参考 : JR福山駅の南口に、広場とバス乗り場併設へ 官民組織が整備案 [広島県]:朝日新聞

三蔵稲荷神社




お百度参りとは、神様にお願いを叶えてもらえるよう、百度石を基点に本殿までを100往復する祈願の方法です。「一念岩をも通す」という言葉があるように、どんな願い事も心を込めて100回繰り返すことで、信仰心の篤さと切実さが神様に届くといわれています✨
平安時代から続く由緒ある儀式で、数を数えるためのこより紐は社務所でいただけます。左側通行でゆっくりと、願いを込めながら歩いてみてください😊


阿部神社


阿部神社は福山藩主・阿部家ゆかりの神社で、備後護国神社の前身のひとつです。境内地と社殿の大部分を無償提供し、昭和32年(1957年)に備後神社と合併して備後護国神社が設立されました。


備後護國神社


備後護国神社は昭和32年(1957年)3月11日に「備後神社」と「阿部神社」が合併して設立されました。御祭神は備後六市八郡内で国家公共に殉じた英霊31,450柱と、大彦命を主神とした阿部神社の英霊を合わせて祀っています。
参考 : 由緒 - 備後護国神社

宮本武蔵腰掛石
宮本武蔵は大阪夏の陣(1615年)で水野勝成の陣に属して参陣し、その縁で寛永年中(1624〜1629年)に福山城の勝成を訪れました。水野家二番家老・中山将監が武蔵を自邸に招いてもてなした際、庭園の庭石に武蔵が腰掛けたことが「武蔵腰掛石」として伝わっています。


備後福山藩七代藩主 阿部正弘公石像


阿部正弘公は天保14年(1843年)に25歳で江戸幕府老中となり、嘉永5年(1853年)には総理大臣格に就任。安政3年(1854年)に日米・日英・日露の和親条約を結んで開国を実現し、誠工館を建てるなど近代文明国・日本の基礎を築いた阿部家十六代・福山藩主です。
当神社では稲荷祭神として祀られており、石像をくぐることで学業合格・就職などの願いが叶うとされています😊


福山城公園
福山駅北口すぐそばに位置する、福山城跡を整備した都市公園です🏯 駅からこれほど近い城跡は全国でも珍しく、ホームからも天守閣を望むことができます。


案内板
福山駅を出てすぐのところに福山城公園の案内板があります。散策前にここでルートを確認しておくと安心です。備後護国神社や武蔵腰掛石、釣り人の像など見どころが多いので、まずは案内板でお気に入りのスポットをチェックしてから出発しましょう😊


内堀跡


本丸を囲むコの字状の水堀で、南側には複数の櫓が並ぶ城の要所でした。


空襲の炎で焼けた石垣
福山城は1622年(元和8年)に水野勝成によって築かれた近世最後の城郭建築ですが、1873年に廃城となり多くの建物が取り壊されました。さらに1945年8月8日の福山空襲では国宝の天守閣と御湯殿が焼失しました。
福山駅北側の石垣は空襲の激しい炎に長時間さらされたため赤く変色し、鋭角だった石が丸くなっており、当時の焼夷弾による被害を今に伝える貴重な遺跡です。


東内堀北端ライン


1997年の発掘調査で古絵図通りの位置に東内堀北端の東西石垣が確認されました。調査後は埋め戻されましたが、地表面に5cm幅の白いタイルで石垣ラインが表示されており、かつての堀の位置を今に伝えています。


ふくやま文化ゾーンマップ
マップには周辺の観光施設や史跡が詳しく記載されており、散策ルートの確認にぴったりです。福山駅からすぐのエリアに見どころが凝縮されているので、まずはこのマップで全体像を把握してから出発しましょう😊


馬場跡
二之丸東側にあった場所で、現在は道路となっています。


福山城



福山城は1622年(元和8年)に水野勝成によって築かれた城で、JR福山駅のすぐ北側に位置する「駅から最も近い城」として知られています。城内そのものに駅が建てられたという全国でも珍しい立地が特徴です。
天守の最大の特徴は北側のみ5層を除く全面に鉄板を張った「天守北側鉄板張り」で、風雨への備えと攻撃への防御を兼ねた全国唯一の構造として知られています。2022年(令和4年)の福山城博物館リニューアルで復元されました。


五千石蔵跡
五千石蔵跡は福山城二之丸北側に位置し、江戸時代に幕府から預かった備蓄米を収めていた蔵があった場所です。享保17年(1732年)の対馬の火事や享保18年(1733年)の長州の飢饉の際に備蓄米が救済に使われました。寛延3年(1750年)に蔵の大半が取り壊され、明治年間には土地が民間に売却されました。現在その跡地には国登録有形文化財の福寿会館が建てられています。


福寿会館
福寿会館は本館・洋館・茶室・蔵で構成される昭和初期を代表する建物で、登録有形文化財に指定されています。本館・洋館は貸会場としても利用可能です。


水野勝成之像


水野勝成は元和5年(1619年)に備後十万石の藩主となり、芦田川河口の干潟を埋め立て城下町を築いて「福山」と命名しました。民政に力を注ぎ、池溝の開削・干拓・耕地拡大・芦田川改修・水道整備など領内の発展に尽力し、社寺の復興など文化振興にも取り組んだ今日の福山の礎を築いた人物です。この銅像は市制60周年を記念して昭和53年4月に建立されました。


東坂三階櫓跡
東坂三階櫓は二之丸東側のほぼ中央に建てられた三重の櫓で、神辺城から移築した鹿角菜櫓との間に東坂上り櫓門が設けられていました。また北の鬼門櫓との間には総延長約573mにも及ぶ多聞櫓が連なり、大坂城・名古屋城に次ぐ全国有数の規模を誇りました。1873年(明治6年)の廃城令により取り壊されています。


鹿角菜櫓跡


鹿角菜櫓(外一番二重御櫓)は東坂三階櫓の西側に位置する二重の櫓で、神辺城から移築したと伝わっています。東坂三階櫓との間には東上り楯門が設けられており、三之丸から二之丸へと続く重要な守りの拠点でした。1873年(明治6年)の廃城令以降に取り壊され、現在は発掘調査の成果をもとに石垣の整備が進められています。
参考 : 福山城東側の威容を語る 東坂三階櫓(やぐら)跡と多聞櫓跡 - 福山市ホームページ

冠木門
福山城本丸の搦手にあたる棗木御門跡に建てられたもので、元々あった内枡形の石垣が撤去された後に、遺構とは関係のない門として建てられたものです。つまり歴史的な遺構ではなく、後から設置されたものとなっています。
参考 : 福山城 (備後国) - Wikipedia

鏡櫓文書館
鏡櫓(文書館)は1873年(明治6年)の廃城の際に取り壊されましたが、1973年(昭和48年)に外観が復元され、翌年4月に福山城博物館の文書館として開館しました。


月見櫓
月見櫓は福山城本丸南東隅に位置する二重櫓で、伏見城から移築されたと伝わっています。一階に唐破風、二階に高欄付の縁を巡らせた優美な姿で、水野家時代から月見を目的とした櫓として知られていました。1873年の廃城後に取り壊され、跡地に貸席「葦陽館」が建てられましたが1945年の福山空襲で焼失。1966年(昭和41年)に天守・御湯殿とともに再建されました。


御湯殿
御湯殿は本丸南側中央に位置する本丸御殿の一部で、伏見城からの移築と伝わっています。物見部分は全国でも珍しい石垣から張り出した「懸け造り」で城下を一望でき、風呂屋部分は蒸し風呂でした。廃城令を免れて「清風楼」という料亭として使われ、1933年に旧国宝に指定されましたが1945年の福山空襲で焼失。1966年(昭和41年)に天守・月見櫓とともに再建されました。


本丸御屋形跡


本丸御屋形は福山城本丸に建ち並んだ御殿群の総称で、水野家時代に三之丸東側へ機能が移転し、阿部家時代には荒廃が進んで建物が撤去されていきました。1873年(明治6年)の廃城により取り壊され、現在は礎石のみが残っています。
建物の配置や室内の画題は二条城・名古屋城本丸御殿と共通する型式的なもので、玄関「虎之間」に虎の絵、大書院「皇帝之間」に帝鑑図、表居間「伏見御殿」に山水画が描かれていました。伏見城からの移築と伝わり、当時使われていた杉戸が現在もいくつか残っています。


鐘櫓
多聞櫓の動線上に設けられた独立した鐘楼で、全国でも珍しい構造です。江戸時代には太鼓も常備され、「鐘太鼓櫓」とも呼ばれていました。
1873年の廃城令でも取り壊されず、1945年の福山空襲も乗り越えた現存建物で、1979年の修理を経て福山市の重要文化財に指定されています。現在は自動化され、午前6時・正午・午後6時・午後10時の時を告げています。


伏見櫓
福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されていました。築城時に伏見城から移築された櫓の一つで、柱形や長押を漆喰で塗り出す「真壁造」と呼ばれる古式な外壁意匠が特徴的です🏯


人質櫓跡


人質櫓は横長の二重櫓で、神辺城から移築されたといわれています。「人質」の名称は櫓内に人質を監禁したことに由来するとされますが、伝承に裏付けはなく、移築前の神辺城での呼称が引き継がれたとも言われています。
参考 : 人質櫓 - 備後歴史探訪倶楽部

御台所門跡
鐘櫓の反対側(北側)にかつて存在した門で、西側の二之丸から本丸へと入るための入口でした。現在は石垣で埋められており、門の跡のみが残っています。


八方よしの松
「八方よしの松」はどの方向から見ても形が美しいことからその名がつきました。かつて福山藩主・阿部正倫公が鑑賞し親しんだ松で、1901年(明治34年)に現在地に植えられたものです。添石は粟島産で阿部家から贈られたものです。寺社奉行・老中を務め藩校弘道館を創設した阿部家第4代藩主ゆかりの松として大切に守られており、福山城跡を構成する重要な樹木のひとつです。


外五番櫓(神辺四番櫓)跡
神辺四番櫓(外五番櫓)は二之丸の北西端に位置していた櫓で、神辺城から移築されたと伝わる神辺櫓のうちの一つです。明治初期に破却され、現在は痕跡すら残されていない最も損失が大きい櫓跡です。廃城後に土地が民間に売却されて宅地や農地として利用されたため破壊が進み、現在も二之丸で最も整備が遅れているエリアとなっています。
参考 : 神辺櫓 - 備後歴史探訪倶楽部

阿部正弘之像


福山藩阿部家七代藩主。弱冠25歳で老中に就任し、幕末の多難な時代に幕政を総覧しました。日米和親条約の締結など鎖国の旧弊を断ち、日本の開国への道を切り開いた人物です。
藩主としても庶民の中から人材を登用して藩政を改革し、藩校「誠之館」を開設するなど教育・文化の発展にも尽力。その開明的な姿勢で14年にわたり国政を担いました。


外七番櫓(神辺二番櫓)跡
二層二階の櫓が建っていた場所です。ただし築城初期の絵図では三層となっており、築城後に建て直されたと考えられています。西坂口門の枡形と多聞櫓で繋がれていました。
参考 : 神辺櫓 - 備後歴史探訪倶楽部

外八番櫓(神辺一番櫓)跡
二之丸南西隅に位置していた三重櫓の跡地です。神辺城から移築されたと伝えられ、かつては多聞櫓を介して西坂口門や神辺二番櫓へとつながり、西国へにらみをきかせる福山城の守りの要を担っていました。


巖谷小波の句碑
巖谷小波(いわや さざなみ)は東京府麹町出身の文学者です。近江水口藩の藩医の家柄に生まれ、父・一六は明治を代表する書家でもありました。兄がドイツから送ってきた童話集をきっかけに文学に目覚め、医者の道を拒否して文学を志しました。1887年(明治20年)に硯友社に入り尾崎紅葉らと交わりながら、少年少女向けの作品を多く発表した明治期を代表する児童文学者です。
参考 : 巖谷小波 - Wikipedia