






鹿児島の宇宿にある脇田電停から電車に乗り、加治屋町へ向かいました。


鹿児島えびす神明神社


豊受大神は五世紀、雄略天皇の御代に天照大御神のお告げにより丹後の国から伊勢に迎えられたと伝えられる神様です。
当社の御鎮座年代は明らかではありませんが、文政年間の頃、脇田の里に激しい雷雨が起き、稲穂を抱き白狐に乗った貴人が稲田に降りたという不思議な出来事があり、里人がこれを豊受様の御神意と仰いで神祠を設けて祭ったことが始まりと伝えられています。
参考 : 神明神社 | 鹿児島県神社庁

脇田駅


脇田停留場(脇田駅)は、鹿児島市宇宿三丁目にある鹿児島市電・谷山線の電停で、1912年開業と市電の中でも歴史の古い停留場です。2面2線の相対式ホームで構成され、バス停も近くにあるため公共交通の乗り継ぎがしやすく、通勤・通学から買い物まで幅広く利用されています。宇宿エリアの中心に位置し、周囲には商業施設や住宅地が広がるため利用者も多く、市電で天文館・鹿児島中央駅方面へ向かう際の便利なアクセス拠点となっています。
新屋敷で降りたあと、高麗橋へ向かってゆっくり歩きました。


東郷平八郎・山本権兵衛と日露戦争


東郷平八郎は、海軍大臣・山本権兵衛に連合艦隊司令官として任命され、旗艦三笠に乗って対馬沖の日本海海戦を指揮し、バルチック艦隊を撃破して日露戦争の勝利を決定づけました。


西郷隆盛と西南戦争


西郷隆盛は朝鮮使節派遣をめぐる対立で職を辞し、鹿児島で私学校を設立しました。人々が集まる状況を政府が警戒する中、弾薬搬出をめぐる事件が起き、西郷は政府の意図をただすため挙兵し西南戦争が始まりました。西郷軍は熊本などで官軍と戦いましたが劣勢となり、最終的に西郷は城山で自刃しました。その誠実な生き方は今も多くの人に敬愛されています。


大久保利通と岩倉使節団


1871年、明治新政府は不平等条約改正と体制確立のため、欧米の先進制度を学ぼうと岩倉使節団を派遣し、大久保利通も副使として参加しました。一方、日本に残った西郷隆盛は、地租改正や学制制定など国内の行政改革を進めました。使節団は欧米諸国を巡って政治・社会・文化を視察し、その先進性を直接確認します。帰国後、大久保は朝鮮使節派遣問題を巡って西郷と対立し、その結果西郷は鹿児島に下野することになりました。


五代友厚とパリ万博
1867年、薩摩藩は徳川幕府とは別に「薩摩太守政府」と名乗り、単独でパリ万博に出展した。五代友厚は万博の開催情報をいち早く得て、フランス側と交渉し出展準備を進めた。薩摩藩は工芸品の展示だけでなく、琉球国の勲章をナポレオン三世に贈るなど、あたかも独立国家のように振る舞い、強い存在感を示した。この独自出展の成功により、薩摩藩は幕府と対等、あるいは独立した政府であるかのように海外で広く認識されるようになった。


薩摩藩英国留学生


1865年、薩摩藩は密航という形で19名の若者を英国へ留学させました。彼らは身元を隠し、グラバーの手配した船で羽島を出発し、香港やシンガポールなどを経てイギリスに到着しました。留学生たちは近代産業技術や西洋文化を学び、帰国後はその知識を生かして各分野で活躍し、明治以降の日本の近代化に大きく貢献しました。


大山巌と薩英戦争


1862年の生麦事件をきっかけに薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が起こりました。大山巌は弁天波止砲台で活躍しました。戦争では双方が大きな被害を受けましたが、薩摩藩はこの戦いを通してイギリスの技術や進んだ文化に注目し、後の薩摩藩留学生派遣につながる国際的な関係の発展へと向かいました。


沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑



牛島満は明治20年(1887年)、薩摩藩士出身の父のもと東京で生まれましたが、すぐに父が急逝したため母に連れられて鹿児島に帰郷しました。
幼少より非常に優秀で、第一鹿児島中学校に最年少・10倍の競争倍率を突破して入学。陸軍士官学校では戦術学・教練は常にトップ、示現流の剣道でも頭角を現し、卒業席次2位で恩賜の銀時計を拝受しました。
参考 : 牛島満 - Wikipedia

東郷久義歌碑



加治屋町の甲突川沿いに立つ東郷久義歌碑は、鹿児島出身の歌人・東郷久義が詠んだ短歌を刻んだ石碑です。


アシカプール


鹿児島市が夏季に開放している幼児・低学年向けの浅い水遊び場です。場所は加治屋町21で、小学2年生までの子どもが保護者と一緒に無料で利用できます。


島津斉彬と集成館事業


島津斉彬は、アヘン戦争で清が敗れたことから欧米列強の脅威を痛感し、薩摩藩の近代化を強く決意しました。その施策の中心として日本初の本格的な近代産業群「集成館」の建設を開始し、反射炉をはじめ造船・大砲・ガラス・紡績・写真技術など多様な産業の育成に取り組みました。これらの事業によって、日本の近代産業の基盤が築かれました。


歴史ロード 維新ドラマの道







「歴史ロード 維新ドラマの道」は、鹿児島市加治屋町の甲突川左岸にある遊歩道で、幕末から明治維新にかけて活躍した偉人たちの功績を紹介する7つのモニュメントやシンボルゲートが設置されています。
参考 : 歴史ロード”維新ドラマの道” | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

噫壮烈 法亢盛孝君の碑


石碑は鹿児島市内の甲突川(こうつきがわ)緑地帯付近に設置されており、地域の歴史的記念碑のひとつとして保存されています。


伴彦四郎先生生誕の地


伴彦四郎は江戸時代に活躍した薩摩の琵琶職人です。その作品『木枯(こがらし)』は、表に松竹梅の彫刻が施され、裏には「木枯」の銘と和歌が刻まれた名器で、西南戦争前夜に城山で西郷隆盛らの前で演奏されるという歴史的な場面に登場しました。平成24年(2012年)には松崎の子孫により漆と螺鈿の補修も行われており、現在もその名琵琶は受け継がれています。
参考 : 薩摩琵琶 - Wikipedia

佐多愛彦顕彰碑



1871年に鹿児島で生まれた医師で、大阪大学医学部のもとを作った人物である。若くして大阪医学校の教授となり、「全国どこでも同じレベルの医師を育てるべきだ」と主張して医学教育の統一を進めた。その結果、大阪府立医科大学(のちの阪大医学部)が誕生した。
また、日本で初めて結核専門の科「肺癆科」を作り、結核研究のために「竹尾結核研究所」を設立した。これは後に大阪大学の微生物病研究所につながる。1950年に80歳で亡くなり、現在も大阪大学医学部には彼の胸像が建てられている。
参考 : 歴代教授|大阪大学大学院医学系研究科 呼吸器・免疫内科学

日高山伏物語の碑


鹿児島地方に広く語られている経済民話で、天下一のケチとして知られる日高山伏どんを主人公にした物語です。そのケチぶりは右に出るものがいないほどで、笑いを交えながら語り継がれてきた民話です。


高麗橋



鹿児島のシラス地層を通った地下水は旅行者にも好評で、鹿児島港に入港する船舶もここで給水するほどでした。海に近い地域では井戸水に塩気が混じることもあり、地下水に海水が浸透する問題もありました。かつては水神様への信仰から井戸を大切に扱い、定期的に「井戸さらえ」を行っていました。


吉井友実誕生の地


幼少から俊才と呼ばれ、西郷・大久保らと提携して国事に関与。大阪藩邸の留守居として諸国の志士と親交を深め、寺田屋事件後は幕政改革の使者に随行、薩長連合の推進にも尽力して討幕を進めました。明治維新後は司法・民部・工部・宮内の各省要職を歴任し、日本鉄道会社社長・伯爵・枢密顧問官として明治の国づくりに貢献した人物です。


菓子屋 hoshikuzu



菓子屋 hoshikuzu は、素材にこだわったクッキーやサブレを中心とする焼き菓子のお店です。てんさい糖を使った「甘さ控えめでも満足感のある」味わいが特徴です。店内はおしゃれでギフト向きの雰囲気があり、人気のため売り切れることも多いことから、早めに訪れるのがおすすめです。