








堀井鶴畔書碑
堀井鶴畔(1897〜1975)は福岡県出身の書道家で、鹿児島師範学校・鹿児島大学教育学部に生涯を捧げ、鹿児島県書道会初代会長を務めました。寡黙で誠実な人柄で広く信頼を集めた鶴畔の遺徳を後世に伝えるため、書道会と有志一同によってこの碑が建立されました。碑の詩文は鶴畔が生前好んで揮毫した詩で、波静かな鹿児島湾と周囲の山々の情景に符合したものが選ばれています。


「二つ家」展示物




下加治屋町は甲突川沿いに位置する下級武士の居住地で、西郷隆盛など幕末から明治にかけての偉人たちが育った町です。70数戸の下級武士が暮らし、屋敷は「おもて」と「なかえ」が棟でつながった「二つ家」と呼ばれる形態でした。生活は質素で米を常食することもできず、傘の骨作りや櫛作り、農作業の手伝いなどの内職で食いつないでいたといわれています。


山之口馬場の銘碑



天文館通りの南にある地蔵角交番付近は、かつて松原山南林寺の境内が広がる小高い丘への登り口でした。1780年(安永九)の記録によると、南林寺の堂司辺りに「千丘山」と呼ばれる場所があり、現在の山之口地蔵堂の辺りがその山の入口だったとされています。山之口馬場という地名は、この丘の登り口であったことに由来するようです。


南洲橋






南洲橋は、鹿児島市中心部の甲突川に架かる歩行者専用の橋で、周辺は加治屋町など西郷ゆかりの地に近く、川沿いには桜並木が続いており、桜島を望む美しい景観が楽しめます。


鹿児島市 維新ふるさと館





「維新ふるさと館」は、幕末から明治維新にかけて活躍した薩摩藩士や日本の歴史を学べる施設です。ここでは、西郷隆盛や大久保利通といった偉人たちの生涯や功績を紹介する展示が充実しており、映像やジオラマ、等身大ロボットが歴史をわかりやすく伝えています。
特に、「維新体感ホール」のドラマ「維新への道」と「薩摩スチューデント、西へ」は、幕末の志士たちが日本の近代化のために尽力した姿を臨場感たっぷりに再現しており、観光客にとっても非常に印象的です!


篤姫コーナー






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物語を体験




「明治維新の母と子供達 (母)」楠元香代子


高見橋周辺は甲突川が流れる城下町の一角として、長く市民に親しまれてきた場所です。橋の架け替えにあたり、地域の歴史や市民の想いを大切にしながら修景を施し、公園整備も行いました。


大久保利通像





こちらの像は、明治維新の立役者・大久保利通公を顕彰する銅像です。西郷隆盛と並び、近代日本の礎を築いた大久保利通の功績を後世に伝えるために建てられました。像の表情は凛として静かで、国家の未来を見据えた彼の強い意志と責任感を感じさせます。
明治政府の要職として、版籍奉還・廃藩置県・地租改正・殖産興業の推進など、日本の近代化を支えたその姿は、今も訪れる人々に深い感銘を与えます。静かに立つ像を前にすると、激動の時代を生き抜いた彼の覚悟と誠実な政治理念が伝わってくるようです。


JC千本桜
鹿児島青年会議所(JC)は昭和50年から甲突川の清掃活動を始め、昭和52年には天保山橋から高見橋にかけて千本桜の植樹計画をスタートしました。地域住民や小・中・高校生と協力して3年間で計1,000本を植樹し、市民からの寄贈も相次いで当初の計画を大きく上回る成果となりました。


高見橋
市街地の川沿いにある橋ということで、賑やかさと静けさが同居する場所でした。川の流れを眺めつつ、橋を渡ることで「街歩き」が始まるようなわくわく感もあり、夕暮れ時には橋上からの景色がとても印象的でした。


「明治維新の母と子供達 (子供)」楠元香代子


母像は強さと厳しさを秘めながらも優しく子供達を見守る姿を、子供の群像は健やかでたくましく育つ子供達の姿を表現しています。明治維新という激動の時代を生きた母と子供たちの姿を通じて、命をつなぎ未来へと歩む人々の力強さが伝わってくる作品です😊


ライオンズ広場噴水



ライオンズ広場噴水は、鹿児島市中心部にある「ライオンズ公園」内の象徴的なスポットで、中央にライオン像を据えたデザインが特徴です。段状に流れ落ちる水と周囲の緑が調和し、街中ながらも落ち着いた雰囲気を楽しめます。昼は明るく爽やか、夜はライトアップで幻想的な姿を見せ、散策や休憩にぴったりの癒しの場所です。


歴史ロード 維新ふるさとの道




甲突川沿いの維新ふるさとの道は、西郷隆盛・従道誕生地や大久保利通生い立ちの地など薩摩の偉人を輩出した歴史散策スポットです。約440mの遊歩道には維新ふるさと館をはじめ、いろは歌の歌碑・解説板・江戸時代後期の武家屋敷を再現した建物などが点在し、幕末から明治維新の歴史を体感できます。東郷平八郎や村田新八の出身地でもあり、春には桜が咲き誇りライトアップも行われる、歴史と自然が楽しめる鹿児島を代表する散策スポットです🌸
参考 : 歴史ロード“維新ふるさとの道” | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

円形広場





甲突川左岸緑地の散策路「維新ふるさとの道」の途中に設けられた休憩スペースです。川沿いに整備された丸い広場で、ベンチがあり、散策中にゆっくり座って休むことができます。周辺は幕末・明治維新の史跡が多く、広場にも薩摩藩の海外交流や航路など、歴史に関する案内が設置されており、散策しながら学べる空間になっています。


萩原小路の石碑


鹿児島市では細い道のことを「シュッ」と呼びます。萩原小路という名前は、かつてこの通り沿いに萩原家の屋敷があったことに由来しています。


戦災復興記念碑




鹿児島市は太平洋戦争末期に80回を超える空襲を受け、市街地の大部分が焼失しました。しかし戦後、全市民が一致団結して復興事業に取り組み、灰燼の中から現在の緑豊かな近代都市へと見事に生まれ変わりました。この碑はその歴史的な復興事業を記念し、鹿児島市の将来の発展を祈って昭和57年2月に建てられたものです。


二松学舎跡碑


二松学舎は明治初期に創設され、学習・武道・詩吟・示現流などを通じて心身の鍛錬に励み、先輩が後輩を教える薩摩伝統の郷中教育を継承してきた場所です。この碑はその郷中教育を後世に伝えるために建立されました。


二本松馬場


二本松馬場という地名は、かつてこの通りの真正面に武岡が見え、その岡に二本の大きな松の木が生えていたことに由来しています。日夏薬門通り(現在の文化通り)から加治屋町の甲突川河畔まで続く通りで、その見事な景色からこの名がついたと言われています。


甲突川左岸緑地トイレ


甲突川左岸緑地には、多目的トイレを備えた公共トイレが設置されています。


時を刻む語らい広場


日本では現在グレゴリオ暦(太陽暦)が使われていますが、明治5年までは太陰暦が使われており、1872年12月3日(太陰暦)が翌1873年1月1日(太陽暦)に改められました。日本の暦は古く中国から伝わりましたが、室町時代になると地域ごとに独自の暦が作られるようになり、江戸時代の貞享2年(1685年)には幕府が全国で同じ暦を使うよう統一しました。


円形階段デッキ
円形階段デッキは、鹿児島市中央町〜加治屋町付近の甲突川沿いに整備された円形の階段広場で、議場をイメージしたデザインが特徴です。周辺の一番街商店街や歴史ロードと一体的に作られており、散策や休憩ができる憩いの場として利用されています。


猫の薬師小路石碑


鹿児島市では細い道のことを「シュッ」と呼びます。「猫の薬師小路」という名前は、かつてこの通り沿いに犬猫の医師(薬師)が住んでいたことに由来していると言われています。


大久保利通生い立ちの地


1830年、高麗町で生まれまもなく下加治屋町に移った大久保利通は、3つ年上の西郷隆盛と郷中教育の中で兄弟以上の信頼で結ばれました。お由羅騒動では父が遠島、自身も謹慎となりどん底の暮らしを体験。その後、島津斉彬が藩主となり復活し、斉彬亡きあとも久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力へと育て上げました。西郷を嫌った久光を説得し、流刑地から西郷を呼び戻したのも大久保の力といわれています。
参考 : 大久保利通生い立ちの地 | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

牧野伸顕誕生地
牧野伸顕は、外交官・政治家として活躍し、昭和天皇の側近としても知られる人物です。大久保利通の次男として生まれ、11歳で岩倉使節団に同行しました。帰国後は外務省に入省してロンドン勤務を経た後、文部大臣・農商務大臣・外務大臣などの要職を次々と歴任しました。その後、宮内大臣・内大臣に就任して伯爵の位を授かり、長きにわたって昭和天皇を支え続けました。
参考 : 牧野伸顕|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

「伊地知正治誕生之地」の碑
鹿児島市加治屋町にある石碑で、幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩士・伊地知正治の生誕地を示すものです。碑は維新ふるさと館の近くにあり、街中の静かな一角に建っています。歴史散策の途中で訪れると、幕末の志士たちの志と薩摩の気風を感じられる場所です。
参考 : 伊地知正治 | 観光スポット | 【公式】鹿児島市の観光・旅行情報サイト|かごしま市観光ナビ

西郷隆盛誕生地



1827年、下級武士の家の長男として生まれた西郷隆盛。貧しい中でも藩校造士館に通い、下加治屋町の郷中教育の中でリーダーとして頭角を現しました。13歳で右腕を負傷し武芸を断念しましたが、勉学に励み仲間の人望を集めます。17歳で地方役人として農政をまとめた意見書が藩主・島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなりました。坂本龍馬をも驚かせたその大きな器量は、郷中教育によって培われたといわれています。
参考 : 西郷隆盛生誕の地 | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

西郷従道邸庭園跡庭石


この庭石は、東京都目黒区にあった西郷従道邸の庭園跡地が公園整備されるにあたり、平成12年12月に鹿児島市へ寄贈されたものです。石は伊豆石・伊予の石・紀州の青石の3種からなります。
目黒の邸宅はもともと兄・隆盛の隠棲所を営む目的で購入されましたが、西南戦争での隆盛の死により叶わず、その後は西郷家の別邸・本邸として昭和16年まで使用されました。庭園は大きな池と斜面の滝を中心とした広大なもので、明治期を代表する名園として高く評価されていました。


村田新八誕生地


幼少期から西郷隆盛を兄として敬い慕い続け、明治4年には岩倉具視一行と共に外遊。帰国後、大久保利通に引き止められながらも「西郷さんの意見も聞かねば」と振り切って帰鹿し、私学校で子弟の教育にあたりました。西南の役では薩軍の二番大隊長として奮戦し、城山最後の日、西郷の死を見届けてから自刃。最期まで西郷への義を貫いた人物です。
参考 : 村田新八誕生地の碑 | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

井上良馨誕生の地


19歳で薩英戦争に参加した井上良馨は、明治元年に海軍へ志願。「雲揚」艦長として江華島事件に勝利し、西南の役では官軍側として鹿児島湾に入港しました。日清・日露の両戦争では佐世保・横須賀・呉などの鎮守府司令長官を歴任し、戦後は軍事参議官となり、明治44年に元帥の称号を賜りました。


篠原国幹誕生之地
造士館で学んだ後、戊辰の役で活躍し陸軍少将まで上り詰めましたが、征韓論に敗れた西郷に従い官職を辞して帰鹿。私学校の監督として子弟の養成に励み、西南の役では薩軍の一番大隊長として田原坂の激戦を指揮しましたが敵弾に倒れ、40歳の若い生涯をとじました。


東郷平八郎誕生地


1847年、下加治屋町に生まれた東郷平八郎は、幼少の頃から芯の強い子として西郷隆盛の弟・吉次郎に可愛がられました。15歳の時に体験した薩英戦争で、101門の砲口を向けるイギリス艦隊を前に海軍への道を志したといわれています。
戊辰戦争で軍艦春日丸に乗り組んだ後、イギリスへ7年間留学。グリニッジの造船所で日本軍艦の建造に立ち会い帰国しました。その後は一生を海軍に捧げ、ロシアのバルチック艦隊を全滅させ「東洋のネルソン」として世界にその名を轟かせました。


大石兵六夢物語の碑


大石兵六夢物語の碑は、鹿児島市加治屋町に建てられている石碑で、郷土文学「大石兵六夢物語」を記念したものです。場所は鹿児島中央高校の正門向かいで、加治屋町の歴史散策ルートの一つとして訪れやすく、周辺の維新史跡と合わせて巡るのに適したスポットです。


大山巌元帥誕生地


1842年、下加治屋町に生まれた大山巌は、西郷隆盛のもとで郷中の元気坊として育ちました。血気盛んな若者時代には寺田屋事件で謹慎、薩英戦争では英国艦に乗り込むなど豪快なエピソードも残っています。
フランス留学後は陸軍の近代化に尽力し、初代陸軍大臣に就任。日清・日露の両戦争で活躍し、日露戦争では満州軍総司令官として奉天大会戦に勝利、「ナポレオン以来の戦略家」と世界にその名を轟かせ元帥公爵の地位を得ました。豪傑のイメージとは逆にハイカラを好んだ人物で、1916年に国葬をもって那須に葬られました。


黒木為楨誕生之地


薩摩武士らしい豪傑肌で猪突猛進型の黒木為楨は、経験と勘に裏打ちされた優れた野戦指揮官でした。明治天皇を相撲で容赦なく投げ飛ばしたという豪快な逸話も残っています。日露開戦直後の快進撃は黒木の手腕によるところが大きかった一方、その突出ぶりに総司令部から再三「進撃中止」の命令が出されるほどでした。戦後は元帥位を嫌い、名誉職より現場の指揮官としての地位を好んだ、最後まで武人に徹した人物でした。
参考 : 黒木為楨 - Wikipedia

来来亭 加治屋町店



来来亭 加治屋町店は、鹿児島市電「加治屋町」電停のすぐ近くにあるラーメン店で、京都風醤油味の鶏ガラスープに背脂を浮かべた、コクがありながらもすっきりした味わいが人気です。麺の硬さやスープの濃さ、ネギの量などを自分好みにカスタマイズできるのも魅力。


イギリス艦、鹿児島湾に現る碑 大山巌、西郷従道、山本権兵衛の像




生麦事件の解決を求めてイギリスが薩摩に7隻の艦隊を派遣したいわゆる薩英戦争。イギリス艦隊入港の知らせを聞いた大山巌、西郷従道、山本権兵衛も港へ急いだとされており、この碑はその歴史的な場面を伝えるものです。
後に明治の重要な指導者となる3人が、若き日に同じ歴史の瞬間に立ち会っていたことに、深いロマンを感じます😊


山本英輔誕生之地
山本権兵衛の兄・吉蔵の長男として生まれた英輔は、わずか1歳の時に父を西南の役で失いました。明治26年に海軍兵学校へ入学し、日露戦争では第二艦隊の参謀大尉として蔚山沖海戦・日本海海戦で活躍。その後、海軍大学教官・校長を歴任し、昭和4年に連合艦隊司令長官、昭和6年には海軍大将へと上り詰めた人物です。


山本権兵衛生誕地
16歳で年齢を偽り戊辰戦争に参加した山本権兵衛は、西郷隆盛の勧めで海軍兵学校へ進み、卒業後は艦長を歴任。1898年に海軍大臣となり7年間海軍の最高責任者を務め、日露戦争では東郷平八郎を連合艦隊司令官に任命しました。
1913年に総理大臣となるも、シーメンス汚職事件で辞任。関東大震災時には再び総理大臣として東京復興に尽力しましたが、虎の門事件の責任をとり再び辞任しました。心が広くユーモアあふれる人柄だったと伝わっています。


時標②「樺山、黒田、大いに語る」


幕府の大老に就任した井伊直弼は、将軍継嗣問題で薩摩藩主・島津斉彬を含む一橋派と激しく対立しました。そんな激動の時代の中、樺山資紀や黒田清隆など多くの薩摩の若者たちが、藩や日本の将来について日々熱く語り合っていました。


「ザビエルと薩摩人の像」溝口守一




1549年、鹿児島の青年ヤジロウ(アンジロウ)の案内でフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航し、島津貴久からキリスト教布教の許可を得ました。
その後ザビエルは天皇への謁見を目指して京都へ向かいましたが果たせず、鹿児島の青年ベルナルドをヨーロッパへ送りました。ベルナルドはヨーロッパの地を踏んだ最初の日本人として教皇にも謁見し、大きな感銘を与えましたが、1557年にポルトガルで亡くなりました。
ヤジロウは日本にヨーロッパの精神文明をもたらし、ベルナルドはヨーロッパに日本を紹介するという、日欧交流の架け橋となった二人の功績を称え、ザビエル来航450周年を記念してこの像が1999年10月8日に建立されました。


フランシスコ・ザビエル聖師滞麑記念碑(旧ザビエル教会石壁)


1549年に鹿児島市の稲荷川河口に上陸し、日本で初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの渡来を記念した碑です。1911年に県内初の石造り教会が建てられましたが戦災で焼失し、焼け残った旧教会の石壁を活用して記念碑が建てられました。


「フランシスコ・ザビエル胸像」柳田菖
1949年にザビエル渡来400年を記念して造営されたザビエル公園内に設置された胸像で、鹿児島市に長く在住した彫刻家・柳田菖の代表作のひとつです。ザビエル滞鹿記念碑の奥に今も残されています。


鹿児島市ザビエル公園



1549年にスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島・祇園之洲に上陸し、約1年間滞在しながら日本にキリスト教をはじめ様々な異文化を伝えました。明治時代にラゲ神父がその功績を讃えて建てたザビエル教会は戦災で焼失しましたが、旧聖堂の一部とザビエルの胸像が現在もザビエル公園内に残されています。
参考 : ザビエル公園 | 観光スポット | 【公式】鹿児島県観光サイト かごしまの旅

東郷重位拝領屋敷


示現流の創始者・東郷重位が島津家18代当主・家久に新たな剣法を披露して高く評価され、薩摩の剣術指南役に任じられた際に与えられた屋敷の跡です。重位の示現流はその後、薩摩藩独自の兵法として武士の育成に重要な役割を果たしました。また、重位の高弟である薬丸兼陳は薬丸自顕流を興し、多くの剣士を育てています。屋敷の場所は現在の鹿児島市山下町(市役所の南側)にあたり、後に東郷家4代・東郷実満の時代に再び拝領されました。この地は示現流と薩摩武士文化の歴史を伝えるゆかりの場所です。


四方学舎の跡


古新屋敷・新新屋敷など近隣の郷校が変遷を経て統合されたもので、武芸に励み志魂の育成を行った場所です。内閣総理大臣・黒田清隆や彫刻家・安藤照など多くの逸材を輩出しました。昭和43年の明治百年を機に南洲神社境内に移り、昭和51年に百年式典を挙行しました。


安藤照誕生地


1892年(明治25年)生まれの彫刻家・安藤照は、東京美術学校在学中から帝展に入選し、「流れ」「芽生え」「踊りの構図」「大空へ」が次々と特選を獲得。「大空へ」では第一回帝国美術院賞を受賞しました。のちに帝展委員・審査委員となり、彫刻の量感表現を主張して昭和4年に槐人社を結成。鹿児島の西郷隆盛銅像や忠犬ハチ公銅像など数々の名作を残した鹿児島が誇る彫刻家です。


黒田清隆誕生地
黒田清隆は1840年に鹿児島城下・新屋敷で生まれ、薩英戦争や鳥羽伏見の戦いなど多くの戦闘に参加した後、1870年に樺太開拓次官となり北海道開発の重要性を認識してその推進に尽力しました。外国人専門家の招へいや官営事業の推進、屯田兵制度の導入などにより北海道の殖産興業を大きく前進させました。


大久保利通生誕地


西郷隆盛・木戸孝允とともに「明治維新の三傑」と称される大久保利通は、明治政府では参議・大蔵卿・内務卿などの要職を歴任し、事実上の首相として日本の近代化を牽引しました。西南戦争後は駒場農学校を開設するなど新たな事業にも取り組みましたが、明治11年(1878年)5月、紀尾井坂で刺客に襲われ47歳でその生涯を閉じました。


井上良馨誕生地
19歳で薩英戦争に参加した井上良馨は、明治元年に海軍へ志願。「雲揚」艦長として江華島事件に勝利し、西南の役では官軍側として鹿児島湾に入港しました。日清・日露の両戦争では佐世保・横須賀・呉などの鎮守府司令長官を歴任し、戦後は軍事参議官となり、明治44年に元帥の称号を贈られました。


高島鞆之助誕生地



高島鞆之助は弘化元年(1844年)、薩摩藩士の子として高麗町(現・上之園町)に生まれました。陸軍中将・子爵として宮廷侍従武官長・陸軍大臣・枢密顧問官などの要職を歴任し、正二位勲一等を授かりました。明治21年(1888年)には大阪に追手門学院(旧・大阪鎧行社附属小学校)を創設した人物でもあります。


鹿児島市 観光交流センター






鹿児島市上之園町にある市の観光案内拠点で、鹿児島中央駅から徒歩圏内に位置しています。館内には市内や周辺観光地のパンフレット、多言語対応の観光案内、交通情報などが整い、旅のスタート地点として利用しやすい施設です。


蒸氣屋 中央駅前店


鹿児島中央駅東口の正面にあり、とても立ち寄りやすい和菓子店です。店内では鹿児島名物の「かるかん」をはじめとした蒸氣屋の定番菓子が販売されています。


職人の技が生む、純白の味わい
粘り気の強い自然薯を厳選してすり下ろし、米粉と砂糖を加えて蒸し上げます。純白の「かるかん」をほおばれば、やさしい甘さとやわらかな香りが広がります。もっちりとした食感は、生地内の水分を保ちながら熱を加える、熟練の職人のなせる業です。


半世紀の歴史と、屋号に込められた物語
「薩摩蒸氣屋」の創業は遡ること半世紀。一九八八年に現在の屋号へと改名しました。「外様ゆえ幕府から睨まれた薩摩のお殿様は、経済的に窮乏するあまり、一時は流木や廃材を燃料に蒸し菓子を作っていたと伝わります。