








鹿児島世界文化遺産オリエンテーションセンター



鹿児島世界文化遺産オリエンテーションセンターは、仙巌園の敷地内にあり、世界文化遺産に登録された「旧集成館反射炉跡」など薩摩の近代化の歩みをわかりやすく紹介する施設です。館内には、歴史資料などが展示され、当時の技術や薩摩藩の取り組みを視覚的に理解できます。


史跡「旧集成館」 集成館事業と反射炉の碑
石垣は、大砲を鋳造するための西洋式反射炉を支えていた基礎部分で、耐火煉瓦を使って築かれていました。欧米列強に対抗するため大型カノン砲の製造を目指した薩摩藩は、オランダ人ヒュゲニンの図面を参考に反射炉建設に挑みました。初号炉は失敗したものの、二号炉が完成し、実際に大砲の製造が行われたと伝えられています。


集成館の水路


この水路は、関吉の取水口から引かれた水を高低差を利用して集成館まで導くための施設で、園内に残る石積みの水路跡がその名残です。流れてきた水は高炉のふいごを動かして鉄を溶かす作業に使われたほか、砂鉄の選別やガラス工場など、さまざまな産業活動に利用されました。古い図によると、現在の駐車場付近には別の水路が存在し、水車を回して大砲製造の際に砲身へ穴を開けるための動力としても活用されていたことがわかります。水の力が多方面で工場群を支えた、集成館事業の重要なインフラでした。


山階宮大妃常子殿下瘞歯髪碑


山階宮威子にゆかりのある場所です。島津家29代当主・忠義の娘として仙巌園で生まれ育ち、その後、皇族の山階宮家に嫁ぎました。彼女の死後、ここには威子の歯と髪が納められ、供養のために碑が建てられています。


反射炉由緒書碑



島津斉彬が鉄製大砲の鋳造のために建設した反射炉の跡地です。実物を見ることなくオランダの書物を頼りに苦心して建設され、高さ約20mの炉がそびえていた洋式工場群「集成館」の中核施設でした。
参考 : 仙厳園 園内マップ

旧集成館反射炉跡


仙巌園内に残る幕末の製鉄・鋳造施設の遺構で、島津斉彬が推し進めた近代化事業「集成館」の一部として1850年代に建設された反射炉の基礎部分です。反射炉は西洋技術を参考に鉄を溶かし大砲を鋳造するための施設で、日本の産業化の初期を象徴する存在といえます。


山神・水神
江戸時代中期に山神、水神を祀るために作られたと言われています。


近代薩摩焼の発祥の地
石垣の上には28代島津斉彬が築かせた薩摩焼の窯が並んでいました。ここでは金襴手と呼ばれる華麗な絵付けの陶器が作られ、さらに反射炉建設に使われた耐火レンガも焼成されていました。斉彬の時代に生み出された金襴手の薩摩焼は、19世紀から20世紀初頭にかけて海外でも高く評価され、薩摩焼の名声を広める重要な役割を果たしました。


両棒餅屋




江戸時代から薩摩武士に愛されてきた伝統的な和菓子「両棒餅」を提供しています。この餅は一口サイズで、2本の串が刺さっており、武士が腰に大小の刀を2本差す姿に由来すると伝えられています。
参考 : 両棒餅屋 - 名勝 仙巌園 - 薩摩藩 島津家別邸

仙巌園正門




明治28年(1895年)に島津家29代当主・島津忠義によって建てられた木造の門で、クスノキを使った重厚な造りと、瓦屋根に刻まれた島津家の家紋が特徴です。庭園の主要入口とは少し離れた場所にあり、観覧ルートを歩く中でひっそりと姿を見せるため、気づくと嬉しい“隠れた見どころ”のような存在でもあります。豪壮さよりも品のある威厳が感じられ、かつて藩主家の別邸であった仙巌園の格式を今に伝える印象的な門です。
参考 : 仙厳園 園内マップ

名勝仙巖園



仙巌園は、1658年に19代島津光久が築いた島津家の別邸で、中国の名勝・竜虎山仙巌にちなんで名づけられました。桜島を築山、錦江湾を池に見立てた借景が特徴の庭園で、歴代当主に大切にされてきました。1958年には「仙巌園・花倉御仮屋庭園」として国の名勝に指定されています。


獅子乗大石灯籠
跳獅子灯籠は、明治17年(1884年)に島津家29代当主・島津忠義が造らせた、園内で最も大きな石灯籠です。灯籠の上には、江戸時代に花倉御仮屋という別邸に置かれていた「飛び獅子(跳ねる姿の獅子像)」が据えられています。


曲水の庭





曲水の庭は、仙巌園内にある小川が曲がりながら流れる雅な庭園で、和歌を詠むための「曲水の宴」を行う場所として、21代島津吉貴の時代に造られたと伝えられています。曲水の宴では、川上から流れてくる盃が自分の前に到達するまでに和歌を詠むという、古代中国に由来する優雅な風習が行われました。


磯御殿







仙巌園は19代島津光久が別邸として構えて以来、歴代当主に受け継がれてきました。明治4年の廃藩置県後には島津家が鹿児島城からここに移り、明治17年には御殿の大規模な改築が行われました。現在は当時の建物の約3分の1が残り、かつての島津家の暮らしを伝えています。
長い歴史の中で受け継がれてきた建物が今も残っていることに深い魅力を感じます。わずかに残された部分からでも、島津家がここでどのように暮らしていたのかを想像でき、とても興味深いです。
万治元年(1658)に島津家19代光久が御殿を築いて以来、何度も建て直しや増改築を重ねながら、歴代当主がこの場所を愛し続けてきた歴史があります。幕末以降は国内外の賓客をもてなす場所として用いられ、29代忠義が本邸として御座の間を改築し、30代忠重が跡を継いだ後も、東京へ住まいを移しながら鹿児島に戻る際の邸宅として維持されてきました。和の趣に風水の思想を取り入れた作庭や、西洋風の調度品の数々は、公爵島津家の暮らしぶりを現代に伝える貴重な手がかりとなっています。


鳳印の間


鳳印の間(玄関の間)は、島津家の世継ぎ・忠重がニコライ2世来訪時に着用した甲冑の複製が床の間に飾られ、大正期の改築で玄関として用いられるようになった部屋です。


薩摩燒蓋付壶
薩摩焼の蓋付き壺は、1896年にニコライ2世のロシア皇帝即位を祝って島津家が献上した品を模して作られたものです。


神馬
ここはかつて島津家の歴代を祀る組霊社があった場所で、現在は園内の神社に奉納されていた神馬が展示されています。


謁見の間
謁見の間は、明治17年(1884)に改築され、丸十の家紋をあしらったロンドン製シャンデリアの明かりの下で、多くの来賓を同時に迎える場として使われていた部屋です。


釘隠し
御殿内には、日本建築ならではの伝統的な装飾「釘隠し」が多数残されており、細部にまで込められた美意識を感じます。すべてを見つけることはできませんでしたが、気づいた瞬間に「こんなところにも…」と嬉しくなり、つい写真に収めたくなる魅力がありました。


高枡



水を分岐させたり流量を調整したりするための水道施設で、園内から湧き出る水を石造りの水管で集め、サイフォンの原理を利用して御殿前の池などへと配水していた装置です。


御庭神社


島津家は江戸時代に、鹿児島城や仙巌園のほかにも多くの別邸を持っており、それぞれの邸宅には小さな社が祀られていました。これら13の社は明治期に仙巌園へ集められ、さらに大正7年(1918年)に一つの社としてまとめられました。現在の鬼庭神社は、そうした分散していた社を統合してつくられたものです。


石階段


この石階段は、大河ドラマ『西郷どん』の撮影に使われた場所で、西郷隆盛の少年期に父から叱られる場面や、成長した吉之助が仲間の若い藩士たちと斉彬の江戸行きの話題で盛り上がる場面など、複数の印象的なシーンがここで撮影されました。石段と曲水の庭という落ち着いた景観が、物語の雰囲気を自然に引き立てていたことがうかがえます。


秀成荘



桜島や錦江湾を望む美しい景色が広がり、伝統文化と庭園の雰囲気が調和した空間になっています。仙巌園の中でも静けさを味わえる心地よいスポットだと感じます。


水力発電用ダム


明治25年(1892)に島津家の専用施設として造られたもので、日本でも非常に早い時期に建設された水力発電設備です。当時、仙巌園の電気は近くの集成館から送られていましたが、このダムができて以降は、ここで発電した電力を就成所や園内の照明に使用していました。近代化に熱心だった島津家らしい先進的な設備で、当時の技術導入の姿勢がうかがえます。


就成所跡
就成所は、明治25年(1892年)に島津家29代当主・島津忠義によって仙巌園の隣接地に設けられた施設で、集成館事業の一部を引き継いで運営されていました。ここでは鉱山用の器材、小銃や刀剣、陶器など多様な製品が製造され、近代化へ向けた産業拠点としての役割を果たしていました。


江南竹林の碑



この石碑は、江南竹林の由来を後世に伝えるために建立されたもので、天保8年(1837年)に島津家27代当主・島津斉興の命により、五代友厚の父である五代秀尭が碑文を記したものです。


江南竹林


江南竹林は、1736年に第21代島津吉貴が中国原産の孟宗竹を琉球王国を通じて2株取り寄せ、仙巌園に植えたことから始まります。食用としても味わい深い孟宗竹は、ここから日本各地へ広がっていきました。仙巌園は、全国に広まった発祥地のひとつといえる場所です。


濾過池


渡過池(ろかいけ)は、1907年(明治40年)に造られた施設で、園内に湧く水を集めてろ過し、御殿などへ供給する役割を担っていました。


猫神社





猫を神として祀る珍しい社で、由来は17代島津義弘が朝鮮出兵の際に連れて行った七匹の猫にあります。義弘は猫の瞳の変化をもとに時刻を読み取ったと伝えられ、猫神さまは「時の神」として信仰されるようになりました。戦から生きて戻った二匹の猫が鹿児島に帰り、この地に祀られたとされています。また、百日咳にご利益があるともいわれています。
戦国武将と猫という意外な組み合わせがユニークで、島津家らしいエピソードの詰まったほほえましい社だと感じました。


迫ン太郎


水の流れを利用して動く昔の精米機で、玄米の殻を取り除いて白米にするために使われていたと伝わっています。水力で動く腕が約1分に1回、1日では1,440回、年間では50万回ほど打ちつける仕組みで、当時の人々が自然の力を巧みに利用していたことがよくわかる装置です。


六地蔵


仏教で六つの世界(六道)を救うとされる六体の地蔵菩薩を表した石塔で、六角形のそれぞれの面に一体ずつ地蔵が刻まれています。戦国時代、島津氏は合戦が終わった後、敵味方の区別なく戦死者を供養するために、このような六地蔵塔を戦場に建てていたと伝えられています。


筆塚


鹿児島県書道会創立50周年を記念して建立された筆塚で、筆供養のためのものです。


立礼茶席 竹徑亭
庭園散策の合間の休憩に最適な場所となっています。抹茶と和菓子のセットは手頃な価格で、観光の途中に気軽に立ち寄れる雰囲気です。ゆったりとした時間を過ごしたい方におすすめの茶屋です。


紙ふうせん


紙ふうせんは、鹿児島市の歴史庭園・仙巌園(せんがんえん)内にある土産物店です。園内の散策ルート上に位置し、特に近くの「猫神社」と関連したグッズが多く並ぶのが特徴です。


会津薩摩友好の椿
会津若松西ロータリークラブと鹿児島中央ロータリークラブの友好盟約を記念して、2009年(平成21年)に植えられた椿の木です。かつて会津と薩摩は戊辰戦争で敵同士として戦いましたが、後に日本の近代化を支えた両藩の精神を、未来を担う若い世代に伝えたいという思いを込めて植樹されました。同じ時期に会津若松市にも同じ椿が植えられており、過去の対立を超えて築かれた友好の象徴となっています。


観音岩


1703年に観音礼拝所として設けられたもので、岩には観音菩薩を表す梵字が刻まれています。島津家20代当主・綱貴の正室である鶴姫(上杉綱憲の養女)の願いにより、彼女の実父・吉良上野介を弔うために建てられたという伝承が残されています。


仙巌園ブランドショップ






薩摩切子など鹿児島の伝統工芸品を中心に取りそろえています。黒を基調とした落ち着いた店内には、ここでしか買えないオリジナル商品も並んでいます。


土産処 島津のれん




鹿児島ならではの名産品や島津家ゆかりの品を幅広く取りそろえた場所です。かるかんや黒酢といった定番のお土産から、やさつま揚げまで多彩な商品が並んでいます。
参考 : 売店 アーカイブ - 名勝 仙巌園 - 薩摩藩 島津家別邸

源頼朝公御石塔


島津家の初代・島津忠久は、源頼朝の庶子であるという伝承が残っています。江戸時代になると、鎌倉にある源頼朝の墓が荒れ果てていることを知った島津家25代当主・島津重豪は、宝塔を新たに造り、多層塔を移すなどして頼朝の墓を修復しました。


鶴嶺神社




鶴嶺神社は、文治元年(1185年)から明治4年(1871年)の版籍奉還まで、約700年にわたり南九州を治めた島津家の歴代当主とその家族、そして玉里島津家の歴代当主とその家族を奉祀する神社です。家老5名、殉死者45名も従神として祀られています。
明治2年に創建され、当初は鹿児島市内坂元町山下鶴嶺(現在の照国町・島津斉彬公銅像の地)に建てられました。明治6年(1873年)に県社に列せられ、大正6年(1917年)に島津家30代・忠重によって現在地へ遷座、御社殿が造営されました。昭和10年(1935年)には天皇陛下の地方行幸の際に幣帛料を賜っています。


尚古集成館


薩摩藩では、鎖国の時代から海外の情報をいち早く取り入れており、幕末になると欧米列強のアジア進出を危機としてとらえ、西洋の技術を積極的に導入して軍備と産業の近代化を進めました。これが集成館事業と呼ばれる取り組みです。